帚木蓬生
-Hahakigi Housei-


主人公規子が、初めて勤めだした病院では、子供への臓器移植が盛んな病院。
その臓器が、どうしてこの病院に沢山集まってくるのか。
一方で、病院近くのレストランで、無脳症児を出産しようとしている女の声を聞く。
無脳症児、読んで字のごとく、先天的に脳を持たないという障害を持ち、出生後100%死ぬ運命。そんな子供を産もうとしている事と、臓器移植の臓器提供元に疑問を持った規子は、同僚の看護婦と、親しくなった医師と共に、調べ始める。
サスペンス長編と、裏表紙には書いているが、サスペンスな部分よりも、人として何処までいのちというものを、扱っていいのか。生きていないと、生きられないの差は何なのか。
考えても答えはあるのか。色々考えてしまう作品。

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ここから先は、もし本を読むつもりでいる人。
最後まであらすじを知りたくない人は、読まないで下さい。

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めちゃめちゃ簡単に説明すると、その病院では、胎児を無脳症児にする方法を発見したんで、無脳症児を産んでもいいっていう女の人を探してきては、妊娠させて、その無脳症児を買い取っていたんよね。でもって各臓器を、移植する家族に、寄付金という形で高値で売りつけ、儲けてたわけだ。
その真相を知った、
同僚の看護婦と、親しくなった医師は、事故や自殺に見せかけて殺されてしまう。警察もどうもぐるになっているらしい中、規子は殺されそうになりながらも、真実を暴いていく。
結局最後には、2人の死を怪しんでいた刑事によって、めでたしめでたし。
(かなり簡単しすぎかも。だってこれ文庫本600ページ。厚さにして1.5ミリほどのかなりの長編。)

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この臓器農場に関わっていた人の中で、ただ金儲けのための経営者たち、自分の研究のためだけの医師、純粋に子供のいのちを1つでも助けたいという気持ちの看護婦が出てくる。
看護婦は言う。
「無脳症児は神様の贈り物。それによって先天性の奇形を持った赤ん坊が全部救われる。」
赤ん坊だけではなく、無脳症児を身ごもった母親も、無意味な妊娠いやそれよりも天罰の妊娠(と、妊婦が思いこむ)から、重要な妊娠へとなり、救われることになる、という意志の元、臓器農場に取り組む。
ただ規子は、無脳症児を人工的に作り出すことや、それで私腹を肥やしていたことにではなく、無脳症児の臓器を移植に使うこと自体に疑問を抱く。脳死からの臓器移植だと本人の意思によって行われるが、無脳症児の場合本人の意思は無視される。いや無視しようにも最初から意志なんて存在しない。
もし私が、先天性の奇形を持った赤ん坊の母親、無脳症児を身ごもった母親、双方どちらの立場になったとしても、きっと疑問を持たずに移植を進めるだろう。もし持ったとしても、その後にあるいのちを取るに違いない。
上の看護婦の台詞に規子は言う。
「頭が無くても、心臓や手足が動いていれば、そこにいのちが宿っている気がします。いのちは脳にあるのではなく、全体にあるのです。考えることや感じることはできなくても、いのちはあります。」
じゃあ、いのちはいつから存在するのだろう。胎児にももちろん動く手足がある。でも、無脳症児の場合、無脳症と分かった時点で、人工流産させる。人工流産は許されて、臓器移植が許されないのは何故なのか。どちらもいのちを1つ消すということに、代わりはない。
本の最初の方で、臓器移植をしてまで生きたくない、と言った母親にある医師が反論する。
「あなたのお子さんがそうだったらどうしますか?」
「人間を冒涜するとか、天命に逆らう行為だとか言って避難する人は、自分がその渦中に身を置いていないからだ」と。
この台詞にさらに反論することは、私には、どうしてもできない。

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えらい堅くなってしまったよう。うーん、でもこれは簡単に話をまとめられる内容じゃない。多分、読む人の立場や、生き方によって、どれが正しいのか別れる、もしくは、考えるほどに分かんなくなる小説。読み終わってから思ったことは
「ブラックジャックなら、どうするだろう?」だった。(笑)
「ふたり死ぬのがひとりになった。文句があるか?」
と一喝して去っていきそうなんやけど。どう思います?


臓器農場/帚木蓬生(新潮文庫)