暑い夏の名残が未だに十分過ぎるほど残っているとはいえ、地獄谷の朝は流石に寒かった。朝早くから、駒鳥小屋を訪れる人も無く、振子沢出合いの夏草は伸び放題、朝露を帯びていやらしい光沢を放っている。夏草は背丈ほどもあり、1mほどに良く成長したイラクサがあちこちにあって、触れた手はひりひりと痛む。ここが大山・振子沢だと教えなければ、熱帯のジャングルといっても誰も疑わないような藪である。
踏み跡を僅かに残しているし、振子沢の名前から受けるイメージとは程遠い、険しく狭い谷底であるから、道を外れるようなことはまず有りそうにない。谷川には今にも消えそうな少量の水が流れ、谷川に沿って緩い勾配の踏み跡が続いている。踏み跡はところどころ夏草の下に消えて、そうした場合は、よく滑る谷川を歩くと直ぐ上でまた出会う。
どんどん狭くなった谷は仕舞いに2mほどとなり、目の前には切り立って僅かな草しか生えていない急斜面が迫る。石でも転げてきたら避けようがない。狭い回廊をぐるりと回ると柳の葉の彼方に切り立った山容の峰が見え始める。天狗ガ峰に違いなかろうが、槍ガ峰などというのもあったので、そのどちらかである。
次第に広くなるカール状の草原には、漸く登った陽射しがあまねく降り注ぎ、花の季節に見覚えのある光景も、今は勘弁して欲しいのが実際であった。踏み跡は右の斜面をほぼ真っ直ぐに上り詰め、尾根に出ると勾配を緩めてダイセンキャラボクの林に向かっていた。これから先には、陽射しを遮る木陰は何処にもない。文字の消えた白い案内標識の影に、僅かに背中を隠して小休止。腕まくりをした皮膚に刺さる陽射しが痛い。
ここから分かれた踏み跡が、東の尾根から山頂部まで続いている。尾根上から人が覗き込むので、あまりヨタヨタ格好の悪い処も見せられない。早く尾根に上がって、北側の岩陰に潜り込むしか陽射しを避ける方法がない。ところが、辿り着いた象ガ鼻の岩場には、避難場所になるような場所は何処にもなく、雲に隠れた北側の空からは、気だるさを跳ね返すような景観も望めない。
上に向かって歩きながら、更に上部の限界点ピークを見ると、数人のハイカーの姿があった。立派なカメラを持った青年が追いついてきた。暫くしたら戻ってきて、下りの人が大勢なので引き返したと云う。まだ残っていたダイセンオダマキの写真を撮ると、さっさと下っていった。南の空にも雲が湧き、難儀な陽射しは大幅に緩和されたが、雨の心配が残る。
振子沢の背丈の高い夏草は、手ひどく踏み荒らしながら登ってきたので、帰りに下が見えないようなところは少なかろう。下りに入ると、なんと同じルートを登ってくる人がある。更に後から後から次々とハイカーが現れる。歩き易くなったとはいえ、こんなルートにこれ程の人が立ち入るとは驚きである。
もう少しで地獄谷といった当たりで若いカップルに行きあった。テントを回収、鳥越峠に向かって登りに入ると、巨大なブナの林の中ではきのこ取りだと思われる集団に出会った。もう少し陽射しが柔らかなら、キノコを探す時間はあったのだ。
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