京都に通じるユリ道は、大河ドラマの影響も手伝って、幕末辺りの民衆の熱気といったものを偲ばせる。茶飲峠の近くには、道の途中の山腹に、関所跡が綺麗に残っていて、建物は綺麗さっぱり消えてしまってはいても、苔むした石畳の上に、彼らの息遣いが偲ばれるのである。
鬱蒼とした杉林の中に孤立したような関所跡は、無論当時からそうであったとは考え難く、いかに北山杉が有名であったとはいえ、山域全てを覆い尽くす植林地ができたのは戦後の事だ。
熱気が立ち込める芦見峠、僅かに流れる風に涼を得て、さあ〜地蔵山へ登ろうか。150年前の幕末、越前の松平春嶽に会うため、坂本竜馬もこの尾根を歩いた、こともあったやも。山頂のお地蔵さんは、昭和40年頃の建立であるそうだから、お尋ねしても、わしゃ知らん。とぼけた顔をなさっておられる。
山頂を離れて愛宕山への尾根ルート、愛宕信仰は火の神さんらしいが、直江兼継あたりもこの山に詣で、ついでに辺りを周遊したと、歴史書に記述がある、という事実は知らず、そのような事があっても一向に差し支えない。本来の山頂は愛宕神社の奥深く、今では芦見谷の源頭部ピークに三角点があって、ぼそぼそ話し声が聞こえてくるのも其処からである。
ピーク下に続く芦見谷の最初は、湧き出す清水から始まる。尾根に較べて数度は確実に低い谷は、杉林の暗さを多少差し引けば、今日などは格別である。ちょろちょろ流れる細い流れに、同じような流れが合し、大きな滝を高巻くところもある。道にはいたるところ橋の遺構があり、幅は1m〜2m、出来るだけ真っ直ぐに作られた立派な道が維持されていたのだ。
越前からの帰りにも、竜馬はこの谷を歩いたのかも知れない。小浜から木地山峠を越え山国を経て、愛宕信仰に賑わうこの道を通ることもけして無理なことではないのだ。寧ろ剣呑な朽木からのルートを避けられるこの道は、大いに安心のできるコースと云えなくも無い。竜ヶ岳もあるし、その北側には竜の小屋なる茶店もあった、のかも知れないし、兎角「竜」には因縁がある。
その竜の小屋へは右に折れるところを、左に折れて芦見谷を下って行く。盆前の記録的短時間降雨で随分様子の変わった谷は、林道の荒廃をもたらしただけでなく川の掃除もしていった。川幅は広く明るくなった。川岸には花崗岩で出来た砂礫がたまり、川岸に咲くオタカラコウも見栄えがする。折角繁殖していたクリンソウは残念であったが、残った大きな株もあるし、いずれまた回復するだろう。
林道は彼方此方崩壊、崩落して車は当分通行不能。竜馬も庶民も歩いただろう左岸のユリ道もまた、補修なしでは通行不能、補修費用の出処も無く、奇特な人も無いままに、このまま消えて行く運命だと思われる。谷を離れると気温の上昇が甚だしい。あっというま、実際は2分ほどで5度も気温が上昇した。峠を越えると更に2度、越畑集落に入って1分で更に5度、終に35度に達した集落の中で、立ち働くのはお年寄りの姿しかない。
鼻の頭に汗を湛えたおばあさん、「この暑い中、よー歩かはんな〜」と京都訛りで苦笑している。たくし上げた両腕に刺さる陽射しが痛い。
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