涼しい谷間を歩くなら櫃倉谷、ちょっと厳しいコースなら小野子谷、さあどっちにしよう。内杉谷に一歩足を踏み入れて、思案の為所を過ぎてから、やっぱり小野子にしようか。
京大の建屋を過ぎた崩落場所の土砂も、概ね綺麗に取り除かれ、車の轍の跡も残る道を進んだ終点には、木の色も新しいキャンプ場がある。目の前の川はちょうど緩やかな地点にあたり、小野子谷からの冷たい水も加わって、水に浸かるには最適の場所だ。
無警戒な小屋の中には沢靴やメガネといった沢での学習兼遊びに必要な道具のほか、ギターなども傍らにあって楽しそうである。谷に入ると沢風が涼しい。気温は30度を越えて、谷の中でも風がないと相当に暑い。西谷との出合いを右に折れるとなんだが寂しそうな、暗い谷が続いている。
沖積土が混じる沢の水は、お世辞にも綺麗だとは云えないし、纏わり着くやぶ蚊の多いこと。標高こそは無いものの、こんな深山幽谷の中でも蚊の繁殖する環境が出来てしまった日本は、やはり亜熱帯、南国の風土病を心配せざるをえない。ちょろちょろ流れる谷を上り詰めると随分厳しい滝が出てきた。
ここらで尾根に出ることにして、左手の厳しい斜面に取り付いた。時折陽差の差し込む斜面は暑くて吐き気がする。身体に力は入らないし気力も湧いて来ない。下界とは5度位は低いだろうと思われるのだが、それでも気温は30度。抜ける風が涼しいのが救いである。休みがちに、ゆるゆるとピークを目指したが、藪の多い尾根で歩きづらい。
小野子東谷の源頭部は緩やかな窪地になっていて、左端からは内杉谷が見えていた。あと少し歩けば林道に出る筈で、内杉谷を歩いて下る予定であった。適当に歩けば林道に出る、と思いながら、いくらよろよろ歩きでもちょっと長すぎる、と思い出した時が、随分あるいた後であった。辺りを見回しても、既に内杉谷は何処にも見えない。
尾根は南東に向かって下っているし、右側には国境尾根が見えている。や、これはしまった歩きすぎた、と気が着いたときは既に引き返す気力も無く、がしかし一気に身体に力が漲ってきた。出来るだけ近い由良川の下降点を探すべく、地図を見て方位を見て、右側に張り出した尾根を下ること30分ほど、やっと由良川の水音が聞こえてきた。
下降地点が余りに厳しいとやっかいなので、ここは慎重にルートを選びながら、かなりの斜面を下ったところは大ヨモギ谷の近くであった。やれやれと、冷たさの感じられない由良川の水で汗を流した。由良川は、この先の相当上流部でも、ドジョウもいるし水温も温くて、中流域と殆ど変わらない。
川を渉ると小屋の跡があり、土手を登るとトロッコ道に出合った。ぼんやり山を歩いてはいけない標本のような結果になった。随分様子の変わったトロッコ道を、灰野集落跡まで戻ったとき、大きなザックを背負った初老の男性が一人、手入れの行き届いた鎮守様に、何時までも手を会わせている処に出くわした。時刻は17時前で、幾らか夕闇の気配も漂う中のこと、郷愁をそそられる光景であった。
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