大津ワンゲル道はまだ一度も歩いたことがない、釈迦岳も一回だけ、ヤケオ山への通過点として歩いただけである。駐車場よこから谷川を越え、照葉樹の薄暗い、深く抉れた登山道をえっちらおっちら歩くと、次第に前方が明るくなって、舞子辺の眺望が良くなる。
このルートは比較的新しいコースだと聞いたようであったが、これだけ深く侵食された道から想像するに、相当古くからのルートに違いない。ときには明らかに人工的な敷石があって、お地蔵さんがないのが不思議なくらい。
ただ、ここに古くから道があるとしたらどんな利便性があったのか、良く分からんところだ。あるいは石切り場との連絡道であったかもしれない。加工された石を積み上げた、砦のような場所に出る。ここに砦を作る相当な理由を見出しえないので、石切り場の可能性もないではない。
砦を過ぎると尾根は細くなり、山肌は、白い花崗岩性のこまかな砂に覆われ、鈴鹿中南部あたりに良く似ている。かろうじて残った岩の塔も、指で擦ると忽ち粗い砂となって地に落ちる。そのような性質が作った奇岩が近くにあった筈だ。暖かな陽射しが射したと思うと、忽ち雲に隠れて冷たい風が抜ける。どこやらとの出合いには、この先難所、とあった。
太陽が顔を出したり隠れたり、要するに温かくなったり寒くなったりを繰り返す間にも、釈迦のピークが近くなる。ツツ鳥の太い鳴き声が辺りに響き、誘われるようにしてジュウイチの鳴き声も、直ぐ傍の杉の梢辺りで爆発するようになった。細尾根の両側は直ぐ下に植林地や雑木の林があり、高度感はない。5mほどの切り立った岩の壁が出てきた、表面には木の根が縦横に這い、上り下りするには困難はない。直ぐ上にも同規模の壁があった。あれがイチョウガレというらしい、イチョウの所以は何だろう。
イチョウガレの上は東側が崩壊した場所となり、釈迦からヤケオ山の崩壊した稜線の眺めが良い。ちょうど陽射しも戻ったときで、白い岩肌が鮮やかである。これを過ぎると駐車場奥からのルートと出会い、細い綺麗な林の続く緩斜面である。直ぐ先のピークには、真っ赤な服を着た男性らと、今来たばかりの高校生?、らしき数人が歓談中であった。
賑やかなピークを離れ、カラ岳へのルートを少し下って、楚々としたドウダンツツジとシロヤシオの傍でザックを降ろした。と、ピーク方面から、真っ黒な短いスカートとタイツの女性が数人走ってくる。お、ここにも山ガールが、驚嘆と好奇の念で通過を見守ったのだが、残念ながら、ガールと形容するにはちとお年を召した方々である。失礼を省みずに表現するなら、山姥、といったものかと思うのである。
まだ続きがあり、後続には相当にお年を召した男性が数名、これは、山爺、と言うことになるだろうか。一団の去った後にはさわやかな気配が漂う、ことはなかった。ヤケ岳方面から来るどなたの顔にも、彼ら山姥集団の名残はどこにも無かったのである。まことに奇態な、深山の昼下がりの蜃気楼であった。
電波の中継基地となったカラ岳を過ぎ北比良峠に向かった。申し訳程度に花を付けたサラサドウダン、ベニドウダンが続いた。峠には10名ばかりのおじ様たちが昼食の最中であった。陽射しも回復傾向にあった峠からは琵琶湖への展望が頗る良い。これを肴に一杯、といった人は一人もない、残念なことである。
昼食後、旧ヒラロッジのあった八雲が原方面に下り、大いに賑わう池の端の様子を伺うに、蹲りゆっくりする人、池の端を散歩する人、武奈ガ岳から下山し北比良峠へ向かう人など、ちょっとした村より賑わいがある。
池にはアカハラだけがゆうゆうと戯れていた。随分歩き良くなった道を金糞峠から堂満岳へ、あちこちの林の中から姿の見えない主の声が木魂する。堂満岳のピークは狭い、そんなに人が居るわけがない、と思うのであるが、下ってくる人は絶え間なく、かつ多い。一汗かいてピークに至ったばかりの後ろを、10名ばかりの団体さんが襲ってくる。汗の引く間もなくて急斜面を下り帰路を急いだ。
青い空には雲は皆無、快晴が広がっていた。
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