車検でオーバーホールに出した車が帰ってこない。テレビを眺めていると、NHKでは盛んに「坂の上の雲」と云う大河ドラマを凌ぐ制作期間をかけたらしいドラマの前宣伝をしている。
そこで、雲について考えた。では、坂の上の雲と山の上の雲とは、如何違うか。日本アルプスや富士山に登った記憶でもあれば簡単であるだろうが、関西一円と中国地方の山ばかりでは、決定的な答えがでるかどうだが、怪しまれるところだ。
坂の上の雲であろうが山の上の雲であろうが、3000m上空に漂う雲はやはり同じ雲である。何れの坂にもよるだろうが、松山市あたりの坂道ならば、凡そ松山の住人には誰でも見える雲をさす。
雲に乗って見た光景はどちらも同じかもしれないが、乗る訳ではないのでこれは問題外。山の上の雲は、山にある人にしか見えないし、遠くから山の上の雲を見た場合は、山の上に懸かる雲、が正しいようである。
大分ほぐれてきたようだ。即ち、坂の上の雲は、街中の坂に在るときにのみ見えた雲を云い、山の上の雲は山の上にある時にのみ見えた雲を云う。大河ドラマの視点は、坂の上になければならないし、少し離れた庭先からの視点ではいけない。山歩きは、司馬遼太郎の小説のテーマまでも解き明かしてくれる、有難いお遊びであることを納得頂けたと思う。
(しょうもな〜〜いわんといて)
簡単に云えば、恐らく小汚い下駄なんぞを履いて、空きっ腹を抱えて坂道に差し掛かる。脱力感に苛まれながら見上げた積乱雲などの様子に、むくむくと湧き上がる青雲の志、一念発起したそれぞれのその後の人生はかくあった、といったストーリーであろう。
さて、雲といえば大峰、とりわけ最高峰八経ガ岳あたりに掛かる雲、夏場は午後になると稜線西側には必ず雲が湧く。雲はやがて低い唸りを伴い、みるみるうちに近づいてくる。
近づくに伴い、金属音が強くなり、そのうちぽつぽつくると、後はもう地獄の裁きもかくや、といった様相に変わる。風が吹き、大雨が辺りを覆い尽くし、黒土の少ない山肌を襲い、清冽な谷の流れは深さをまして濁流となる。濁流といっても、かなりな透明度を残してはいる。
以上のような大峰の夏の雷雲の様子は、前宣伝の大河ドラマに酷似していないか。近づく不穏な気配、顕れた破綻、そして嵐に続く砲声と銃弾と軍靴の響き。目を閉じれば超巨大なシネスコープが目の前にあるようにも思われる。このような時ハイカーは、シートを被り地に伏せて、ビクビクしながらじっと動乱の収まるのを待つのである。
NHKドラマ「坂の上の雲」から大峰の稜線上に浮かぶ雲が浮かび、そしてすぐそこにある日裏山ピークの光景が懐かしく浮かぶのだ。その懐かしい光景、微笑ましい記憶に、我知らず顔が緩むのである。来週こそは何処へ行こう。娑婆にある時は、急坂も藪も木枯らしの厳しさも、いたって強気で望めるのだ。
(日曜日に第1回目が放映された。想定したようなストーリーらしい。最後にどこかの尾根道が映し出されるところまでもあって、事前に知っていた訳ではないのだが)
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