■ 中国山地・子ズッコ〜扇ノ山〜畑ヶ平
・・・・2019年08月03日
2019.8.4

上山高原への道の途中、辺りを深い山々に囲まれた標高400m辺りの山中で、海上と云う集落を通る。海に因んだ地名としては、長野県の諏訪辺りにも見られ、出雲族の東進などとの関係を特集したテレビ番組を見た記憶がある。海上もそうした歴史に関係したものかもしれない。

上山高原はススキに覆われた高原状の大地で、ススキの波の中に立つ記念碑とトイレ、少し登った辺りの避難小屋、木のベンチが数基、其れとススキの中に放牧された牛が20頭ばかり、これで全てであった。ガスで遠望がない代わりに風に涼しさがある。このところ下界は猛暑続き、たまにはこんな日があっても良い。

地図では、上山高原と親水公園の間に池がある。高原の池と云う事で、水辺に白樺の木陰を配した信州辺りの池を想像していた。確か「ショーブ池」と書いてあったと記憶しているが、菖蒲池は道路から100mばかり灌木の急斜面を降った先にある谷間の池で、水辺などに親しむまえに、藪漕ぎの必要な池であった。

鳥取県側の登山口である親水公園は綺麗に整備され、溢れ出た地下水の流れる、名前の通りの駐車地で、既に山にある方々の車が6台ばかり、痺れるほど冷たい水を一掬、空いたペットボトルを満たして、小ズッコ登山口に向かった。道脇の、それほども高くない梢から、盛んに鳥が飛び立つ。後ろ姿から判断すると、カッコウ・ホトトギス・ジュウイチ、黒っぽいのはジュウイチだとして、カッコウの仲間が多い。

登山口に入って5分、あっけなく小ズッコ小屋に着いてしまった。先ずは人工林の縁を歩いて、林相が変わるとブナの純林の中、斜度の少ないブナの下は天国だった。涼しいそよ風の起こる木陰を1時間、標高差300mほどで扇ノ山ピーク、途中で一旦降るところがあるから累積標高はも少しあるかもしれない。山頂小屋からの眺望はなし、小屋には若者が一人、今日の塒にするようだ。

途中で6人ばかりの登山隊と遭遇したから他に人は無いだろう。小屋下の展望台に、清々しい単独中年男性が到着した。今日はこれで打ち止めだろうか。素直に下山したのでは些か物足りない心持ちが遺る。目の前で分かれる畑ヶ平(はたがなる)ルートは、一度下山に歩いた事がある。といっても20年ばかり前で記憶は殆ど残っていない。

もし畑ヶ平に降りると上山高原に回り、そこから車で走った道路か山道をショートカットするコースが可能だ。畑ヶ平コースは3キロ、それの数倍を歩く事になる。ここは思案のしどころで、ん〜ま、良いか。畑ヶ平コースは原生林の中、右に見える扇ノ山の東側山腹も同じく原生林、巨大なブナの林立する手付かずの森を抜けるコースであった。大山・行者コースに似ている。

畑ヶ平は戦後鳥取県によって開墾された畑地で、以前は、広い畑に大根が栽培されていたと思う。畑ヶ平の登山口からは舗装路を北に歩いて上山高原を目指す。道脇に大きなブナの林が点在する舗装路歩きは退屈では無い。ただ空模様が今一つで、時間もかなり押している。上山高原への林道出合に着くと辿る山道の地図が出ていた。道の名は「左馬殿道」(さまどのみち)と云う珍しい名で、途中に木地師の集落跡や墓があると云う。

そもそも登山道として開発された道では無く、古くから利用された道らしい、当然歩きやすい道を期待するのが人情と云うもの。最初は未舗装ながら広めの林道、暫く辿ったところで林道を離れ、僅かに遺るコース案内は暗い谷底に続く細い踏み跡を指している。ここからは心細い道に沿い、谷を越え川を渡り小尾根を越えて、木地師の集落跡は不明であったが墓地と墓石は確認出来た。暗い植林地の下にあった墓石には、天明6年は読み取れたものの、名または戒名の方は不分明。

迫る黄昏時に加えて遂に雨が降り出し、背の高いカヤが出てきてやっと上山高原避難小屋に着いのは17時、ズボンはビショ濡れ、残り4キロほどは車道を歩く。

左馬殿道は、律令制の官職に左馬なにがし、右馬なにがしというのがあったようだから、それに因んだ名であるとすると、そのような官職にある殿方一行が歩いた道、という事になり、古代より道として使われたルートと云うことになるだろう。鈴鹿山中にある木地師の祖と伝えられる集落も、時代としては同時期で、ここに木地師の村落があったとすると不思議に符号する。海上集落との繋がりも興味深い。


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