■ 中国山地・人形仙
・・・・2018年11月03日
2018.11.4

紅葉見物で混雑する森林公園を過ぎ、災害補修箇所を過ぎると寂しささえ漂う人形仙登山口、100m程離れた場所に1台だけ停車車両があった。側に看板の様な物が見える。行ってみると、反対側に古い墓石群と上齋原が設置した史跡である旨の説明書き。それによると、明治14年の疫病で亡くなった、タタラ作業に勤しむ方々37人を弔った、とある。高原状の、川の流れの側で、上齋原への道が分かれるところだ。見に行った看板は、上齋原への道路標識であった。

人形仙への登山口にも看板がある。この先にある、母子地蔵の云われ、子連れの母親の休息中に子が人形にすり替わってしまった、それを慰める地蔵、であったと記憶している。母子地蔵の置かれた峠は旧倉吉街道、鳥取と津山を結ぶ峠道、今なら誘拐事件に相当する話だが、人形峠と言う名称が何やら不気味なものを感じさせる。加えて、小泉八雲のお話等が思い出され、人気の無いジメジメした峠道がまたそうした雑念を助長する。こうした場所は他に記憶が無い。

登山道(峠までは旧街道)がジメジメしているのは、辺りの地形に起因し、こうした地形が、砂鉄を原料とするタタラ場を可能にしてきた。辺りは起伏の少ない高原状の山野が続く。そうした地形は、長い間の山腹崩壊で形成され、深い地層にあった重い元素が地表に現れた場所だ。近くには、原子力関連の研究施設もある希少な場所である。とまあ、色々と複雑な場所なのだ。一つ小尾根を越えたところに湿地があった。湿地の右側に続く道の、小ピーク下に母子地蔵があった。倉吉から続く道は藪に飲まれ、後で調べたところ、道跡は辛うじて残ってはいるものの、歩くものは鹿と猪の他には無さそうだった。

肝心の人形仙へは湿地まで戻って左に登る道を行く。湿地で見かけた竜胆は、登るに伴い数が増え、見事に色付いた紅葉は、雲の多い空の下でも辺りを明るく照らす。少し登ると樹木は少なくなり、少しばかりの灌木と、笹とススキの斜面になった。恐らく、登っても300程だと思われる山頂は、ピーク下まで殆ど変化の無い急斜面で、ただ、登るに併せて振り向いた時の紅葉した森の広がる様子は、これも他に記憶が無い。

針葉樹の殆ど無い高層大地は秋色に染まり、県境の山々や、遠くは鳥取県境を越えて広がる様は。陽射しの少ない事が悔やまれる程であった。上からソロの男性が降りて来られた。件の車の主に違いない。これで近くの山野に他に人の気は無い。見える斜面が緩むと当然次はピーク、と思いたいところ、登って見ると次の斜面が待っていた。ではあそこか、と着いて見ると、連れなくも左の尾根に方向を転じて道が続く。隣のピークに続く肩を過ぎ、少し登った笹薮の中のブナの下が、人形仙のピークであった。

どのような訳か、スマートフォンのバッテリーがいきなり切れて、使用不能になったのは、湿地を過ぎた辺り、ピークで色々調べても動かない、他のバッテリーを繋いでも変わらない、ここはどうやら人智を超えた力の働くところ、かもわからない。そうこうしていると気温が下がり酷く寒い、いつの間に広がった黒雲が空の3分2を覆っている。これも現象の一つかな?

池まで降って、旧峠道等を探索して1時間、峠したの天然の要害らしい場所で見た人工的な積石等は何だったろう?、小ピークの間にある池などの側の積石等は、どんな事で積まれたのだろう?、それにしてもそうした地形が、酷く荒廃したように見えたのは、どのような事がそう見せたのか、今も不思議である。

翌日は、辺りの高峰「泉山」への登山ルートの一つ、中林の滝を見に行った。ここもまた酷い斜度で、しかし流れ落ちる滝には屈託が無い。ニの滝では、流れ落ちる飛沫の中に虹を見た。瀧上の紅葉は青空に映え、一際明るい。


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