朝から大雨の中、熊渡りから日裏山へ、小用を兼ねて歩きました。そのお話をむかし物語風にしてみましょう。勿論フィクションです。
季節もそろそろ梅雨に入ろうかという頃でございます。急ぎの用向きで前鬼までの道程、川合の集落に入りますと、大峰への街道が、直ぐ上の辺りで、雨で崩れて通れないと申します。ご存知のように、大峰への他の道は険しい上に、梅雨時の雨で御座いますから、よほど頼みにはなりません。
あたりの猟師に聞きますと、川迫川を少し登ったあたりに熊渡りと云う川幅の狭くなるところが有るとのこと、そこからカナビキの谷を登れば、尾根筋の街道へはそれ程も難儀はない、とのお話で御座いました。
兎に角急いでおりましたので、聞くとすぐにも川の左岸の道を進み、何とか熊渡りらしいところまでやって参りました。生易しい道ではありません。履いているわらじを4足代えるほど、険しい道が続くのです。でもどうやら熊渡りらしい処から、右手の川に沿って道がついておりますので、まずまず安心しておりました。川の両岸がまるで雲を衝くほども険しくなるところで、左側から降りる尾根が見えます。
良くしたもので、これより先へは歩けもせず、ちょうど尾根に逃げるしかないところに猟師道があるのでございます。暫くはカナビキ谷に沿った緩い道が続きますが、傾きの程は相当なものであったと思われます。え、雨で御座いますか?、雨はやっぱり強く降りますし、谷は霧に覆われて夜のようで御座いました。その心細さは申し上げることも出来ないほどで御座いました。
そのうちに勾配が増してきますと同時に足元が定まりません。持ってきた10足の草鞋もそろそろ残りすくなになってまいります。雨は容赦なく降り続きます。そろそろ後悔の念も萌して参りますし、気は急きますし、兎に角死に物狂いで尾根を目指しました。ふと気がつきますと尾根が大きく緩やかになっております。薄靄の中でも良く踏まれた白っぽい街道の在りかが分かる様でございました。
最後の草鞋に履き替えようと、大きな木の傍によりますと、わたくしの膝くらいの高さの小さな洞に、ジジュウカラの雛の声がするではありませんか。親鳥は殆ど雛の上を覆っておりましたが、僅かな隙間から顔を出してわたくしを見るのでございました。その可愛らしい顔、その時ばかりは何か、暖かな心持が致しまして、勇気も少しばかりは取り戻したような次第です。
夕暮れもまじかで御座います。薄明かりのような大峰の道を急ぎましたが、とうとう夕暮れが迫ってきたのでございましょう。空も辺りも一層暗くなって参りました。我々旅人が一番恐れる狼平と云うところが御座います。え?、わたくしは幸い、未だ会った事は御座いませんでしたが、夜になると狼が群れて狩をするところと聞いておりました。丁度そのあたりに差し掛かっておりましたから、心細いやら恐ろしいやら。
そうこうするうち、とうとう一寸先も見えない漆黒の闇に覆われてしまいました。遠くで狼の遠吠えも致しますし、まるで生きた心地も致しません。どうやら飢えた狼の群れは、哀れな旅人に気がついたようで、次第に声が近づいて参ります。近くには大きな木も御座いましたが、雨で濡れて登ることもできません。はい、わたくしは木登りの上手な方ではないのです。魂も消えんばかりで御座いました。
すると不思議な事が起こりました。わたくしの手を引くものが御座います。この時ばかりは物の怪とか、妖怪の類であってもあるいはついていったかも知れません、不思議に、嫌な気が致しませんでした。いえ、姿は何も見えないのです。半時ばかりも手を引かれて歩きましたでしょうか、あたりには芳しい匂いがたちこめ、気持ちも落ち着いて参ります。姿の見えない者は、座れ、と申しました。声ですか?、それが声はどうも聞いていないようで御座いますが、何と申し上げたら良いか、ただ心に響いたようで御座いました。
下は随分柔らかでしたし、座ったわたくしの上からは、小枝のようなものが沢山かけられました。不思議な匂いの中で、近づく狼の声が、それほど恐ろしくも思われないのです。そのうえ、あろうことか眠気さえ萌してまいります。いえいえ、豪胆などではありません。ただ、そのとき はそれが出来たのです。
ふと目覚めますと、既に朝になっておりました。雨も綺麗に上がり、あたりには小鳥の声が溢れておりました。わたくしを覆っていた小枝はこれで御座います。え、シラビソと申すのでございますか?、これがあたり一面を覆っておりました。思えば、この匂いが人の匂いを消し、わたくしに安心を与えたので御座いましょう。わたくしが座っていたのは厚い苔の上で、近くには、小さな塚が御座いました。
山の中には不思議な事が御座います。山の名ですか?、たしか、日裏山とか申したと、土地のものから聞き及びまして御座います。
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